パラダイム・シフト




『パラダイム・シフト』

作:遠野 秀一 




 二〇四八年、六月一五日。
 ウクライナ共和国、チェルノブイリに巨大隕石が墜落した。
 チェルノブイリといえば、一九八六年四月二六日で原子力発所事故が起こったことで有名だ。事故が起きたチェルノブイリ発電所四号炉は、当時ソビエト特有のRBMK(黒鉛減速軽水冷却沸騰水型)と呼ばれる型の原子炉だった。定期点検中に起こったその事故により、人体に有害な放射線が世界中に振りまかれた。結果、チェルノブイリ三〇キロメートルが人の住めない土地となり、事故を起こした四号炉はコンクリートで固められ、石棺と呼ばれるようになった。
 巨大隕石は、過去にそんな悲惨な事故が起こった場所に落ちた。隕石そのものが地球に落ちることはさして珍しいことではない。しかし、今回の隕石には二つの問題があった。
 まずその大きさ。おおよそ直径五〇メートル(推測)。通常、一〇メートル程度の大きさの隕石ならば大気圏で燃え尽きてしまうが、それ以上の大きさならば地球に到達してしまう。この隕石の大きさは、バリンジャー・クレーター(米国アリゾナ州・直径一.五キロメートル、深さ一七〇メートル)を作ったキャニオンディアブロ隕鉄とおおよそ同じ大きさ。このサイズの隕石が落ちた段階ですでに大きな問題だ。キャニオンディアブロ隕鉄が落ちた時は周囲三キロメートルから四キロメートルの生物が死滅したと言われている。
 そして、もう一つの問題。それほどの威力がある隕石が落ちた場所。かつて原子力発電所事故が起こり、いまだ多くの核燃料や放射線を保有するチェルノブイリに落下したのだ。もし、隕石が石棺を破壊してしまい、衝突の際に巻き上がった粉塵と共に放射線が地球上に降り注いでしまったら、間違いなく大惨事だ。
 この隕石の問題は世界各国に未曾有の混乱を巻き起こした。
 こうした一大危機にウクライナ政府は各国に協力を要請し、NASAを筆頭にした各国の宇宙庁の科学者達がチェルノブイリ入りを果たした。石棺が破壊されたことを想定し、石棺修復(もしくは再建)のための部隊も同行し、チェルノブイリ原子力発電所跡を目指した。
 そして、彼等は帰ってこなかった。連絡も完全に途絶えた。
 すでにこの時、石棺が破壊されているであろうことは予測できていた。世界中のあらゆる場所で自然発生では考えられない量の放射能を検出していたのだ。飛び散った粉塵(チェルノブイリ周辺の土など)にも多く放射能が含まれていたが、それだけでは考えられない量の放射能。これは石棺が破壊された最悪のケースでなければ、有り得ないことだった。
 たった一つの隕石によって、世界中のあらゆる者(動植物を含めて)が被爆した。想定された最悪の事態だった。
 各国の上層部はその情報を規制していたのだが、NASAなどの情報管理の甘い部分からハッカーが侵入し、その恐ろしい事実が世界中に伝わってしまった。
 当然、大混乱が起こった。秩序の統制もままならなくなり、世界中のあらゆる場所から小さな火の手が上がった。不安と恐怖に世界は支配され、火種は瞬く間に全てを焼き尽くす地獄の業火と化した。
 第三次世界大戦の勃発。いや、戦争というにはあまりに稚拙なものであった。恐怖によって起こされた混乱。正義も大儀も何もない、ただ恐れから来る暴力の嵐だった。
 この時、その混乱を加速させるかのように、謎の伝染病が世界中に広がっていた。その奇病は初め、被爆による影響のものと考えられていたが、実際には違うものであった。
 大混乱の最中でもまだまともに機能していた病院で、その謎の伝染病患者の検査が行われていた。そして、判明した事実は、謎の寄生生物による疾患、とのことだった。
 その謎の寄生生物とは何か。その研究をしていた病院は志半ばで、核弾頭の炎によって消し飛ばされてしまった。謎の奇病で混乱を加速化させた世界は、ついに禁断の兵器である核を用い出したのだ。
 こうなってしまっては全てが終わりだった。
 核の光が世界中のあらゆる場所で輝いた。数多の命を飲み込みながら、核は世界を焼いた。人間が生み出した最も忌むべき兵器は、生みの親である人間ごと世界を滅ぼしてしまった。大地も、海も、空も全てが核の光で侵された。
 二〇四九年、一二月二五日。
 その日、世界は死んだ。しかし、それでも世界には多くの生命は生き残っていた。この朽ち果てた醜い世界であっても、生命は決して失せることなく歪に存在し続けていた。



 世界が死んでから二〇年後。
 生命は歪な進化を遂げていた。それは自然では考えられないほど急激な遺伝子の書き換え行為だった。二〇四八年にチェルノブイリに舞い降りた、ジ・エンド、と名付けられた隕石。それによって引き起こされた大被爆によって、この世界中のあらゆる生命の遺伝子は侵された。しかし、それだけでは説明し切れない超進化の数々。隕石落下後の核兵器乱用を併せて考えても、この生命の変態は異常であった。
 生き残った数少ない人間の仮説は、隕石に付着していた微生物が、既存する地球上生物に寄生することによって生じたウィルス進化、というものであった。
 ウィルスが遺伝子を変異させることはわざわざ説明するまでもない。ウィルス進化とは、ダーウィン進化論では説明のつかない進化を補填する一つの理論だ。
 核による遺伝子破壊、地球外生物と接触、この二つによって起こされた生命の変質。それは今まで常識であったものを破壊してしまう新たな世界秩序を生んだ。
 パラダイムシフト。今まで常識であった価値観が、全く別の価値観へと移行してしまった。
 その一つが、亡者、である。現在、生き残っている人間は二つに分かれている。逸早くシェルターを建築して戦火を逃れた者達と、は核の光の中でも生き残った者達の二つ。そして、亡者とはその戦火を生き残った人間たちを指す言葉だった。
 先にも述べたとおり、世界のあまねく生物達は通常では考えられない進化を遂げた。戦火を生き残った人間達も、同様に進化を遂げていた。
 亡者、人間の突然変異種。それは生きるためならあらゆる物を貪り食う異形の人種。彼等の主食は、同族である亡者。人を食らうことで生き残った化け物なのだ。
 そして、彼女もまた、この腐敗した世界に住まう亡者の一人であった。
 普通、亡者には名前がないのだが、彼女には名があった。彼女の名は、シアン。二年前に亡者によって破壊されたシェルター出身者の一人であった。それ故、腐った世界を闊歩する亡者でありながら、名を持つ者だった。
 彼女は今、かつて霧の都ロンドンと呼ばれていた場所にいた。戦前までは世界有数の大都市だったが、現在は見る影もない。今は文字どおり、霧の都、と呼ぶにふさわしいほどの深い濃霧に覆われ、倒壊した高層ビル跡は様々な異形達の住処と化していた。世界中のほとんどが灰燼と化した中、まだこの場所は町らしさを保っていた。崩れて風化した瓦礫ぐらいしかないというのに、それでもまだここはいい方なのだ。
 イギリスは大戦の中でもっとも激戦と化した西欧にあって、一番被害が少なかった。大都市の半分はまだ瓦礫が残る程度の破壊に収まり、大戦中に流行した奇病が国内に持ち込まれることはなかった。そして何より、貪るものの発生が一番少なかった。
 シアンは深い濃霧の中、目を凝らしながらロンドン跡に足を踏み入れた。不気味な色の濃霧と、倒壊した瓦礫の山で、恐ろしく視界は悪かった。彼女はなるべく敵の死角になるような場所を選んで、先に進んだ。
 まとわりつく濃霧はどこか粘着的で、ただそこにいるだけで体力を奪われる。恐らく何かの化学物質の霧なのだろうが、亡者には大した毒性はないらしい。亡者、すなわちこの世界でもっとも脆弱な生命に利かない毒、ということは現生するあらゆる生物にも効果はないはずだろう。
 半時間ほどロンドン跡を進んだシアンは、五割ほど原型を残したまともな倒壊ビルの瓦礫に侵入した。途端に空気が変わった。今までずっと感じていた監視の気配が、明らかな殺意となった。彼女を餌として狩りをする気なのだろう。
 シアンは神経を尖らせ、油断なく銃を構えた。
 彼女の銃は大戦末期に開発されたベクサーM24、ヴェルチャー(vulture)。従来までの鉛玉を撃ち出す銃と違い、どこにでも転がっているような小石や砂、ガラスの破片など何でも撃ち出すことができる。元々、こうした銃自体は特殊部隊などが用いていたものだったが、激化する大戦の中でこうしたタイプの銃が市販されるようになったのだ。
 彼女は壁を背に、慎重に足を進めた。敵の殺気を感じられるのは幸いだった。亡者ごときに気配を感付かれるということは、相手もまた亡者でしかない。
 シアンは亡者達を殺し尽くすために、この荒廃した世界を生きている。かつて暮らしていたシェルターを破壊した亡者達への憎悪が、そうした衝動を生み出している。彼女の唯一の目的であり、生きる意味。それが亡者殺し。
 ザザ…。
 砂利の擦れる音。それを聞き取った彼女はすぐさま銃を向けた。
 三人の亡者が物陰から飛び出した。彼等の手には、シアンと同じタイプの銃があった。このロンドン跡の中でもまともな住居に巣食うだけのことはある。亡者の中では随分まともな武器を所持している。
 シアンは少なからず驚きながらも、冷静に対処した。まずは一番右の亡者に狙いを済まし、二発の銃弾を撃ち込み、その場から横に飛んだ。それに遅れて、それまで彼女がいた場所に銃弾が撃ち込まれた。
 亡者達の銃捌きを見て、扱いがなっていない、とシアンは思った。
 単純な身体能力でいえば、シアンは亡者の中でも下に位置する。そして、今彼女の目の前にいる亡者達の身体能力は恐らく上の下程度。戦力的に考えれば、シアンに勝ち目はない。しかし、彼女の銃の腕前がその戦力差を帳消しにしてくれた。
 シアンは半壊しているオフィスデスクの陰に飛び込んだ。それを追うように、亡者達は銃を向けたが、シアンの銃弾が離れる方が早かった。シアンの銃弾は二人の亡者の頭を撃ち抜き、彼等を絶命させた。
 シアンは物陰から身を出し、絶命した亡者達を見て、愉悦の笑みを浮かべた。亡者を殺すこと。それが彼女の喜びなのだ。
 彼女は銃を仕舞い、ナイフを取り出して亡者の死体に近づいた。
 一人がまだ生きている。シアンが最初に撃った亡者だった。どうやら狙いが甘かったらしい。苦しみもがきながら、逃げようとしていた。シアンは躊躇わず亡者の背を踏みつけ、その頭蓋にナイフを叩き込んだ。
 硬い頭蓋骨をぶち抜くと、ぐしゃり、とした脳の感触がする。割れた骨から鮮血と脳しょうが漏れ出し、シアンの手を汚した。しかし、構わずシアンは何度も亡者の頭蓋にナイフを突き立て、その骨をこじ開けるように割った。
 そして、食った。
 亡者の脳味噌はご馳走だった。あまり保存は利かないが、この腐った世界の中では美味い部類に入るものだった。臓物は引きずり出し、保存用食材としておく。食後のデザートとして、指を切り取って銜えた。
 亡者三人の死体から食料を切り取ると、シアンはその場を後にした。そして、ビルの探索を続けた。
 これだけ立派な住処ならば、おそらく飲み水も充分にあるだろう。現在の世界にとって水は貴重だった。自然にある水源の多くには化学物質が溶け込み、毒性が非常に強くなっている。飲み水として使えるものは少ない。
 シアンは水を求めて、ビル内をくまなく探した。しかし、それらしい貯水場所は見当たらなかった。その探索の途中、何度か亡者に襲われたが、彼女の敵ではなかった。唯一厄介だったのは、十人の群れで襲ってきた連中だった。あまり徒党を組むことのない亡者がそれだけの数で襲ってくるのは、かなり珍しいことだった。
 五時間以上、探索を続け、シアンは結局水を見つけられなかった。
 貯水場所らしきものは何ヶ所か見つけられたのだったが、肝心の水は残っていなかった。どうやらこのビルは住居用としてしか機能していなかったらしい。その割には随分と亡者が住んでいた、というのが探索後のシアンの感想だった。
 シアンは水を諦め、ようやく倒壊ビルから脱出した。そして、何気なく見上げた空に最悪のものを見つけてしまった。
 貪るモノ。
 人間にとって最大の天敵。
 この荒廃した世界に適応した覇者。
 貪るモノとは、かつて自然界において食物連鎖の最下層にいた生物の進化変異体。通常の進化では有り得ないほど不気味に歪み、巨大化した生物達を指す。
 進化とは、死を繰り返すことで、その種が徐々に自然に適応していく形へと変異していくことだ。つまり、死を繰り返せば繰り返すほどに進化する。食物連鎖の最下層の生物は、その寿命が短く、多くの子孫を残す。それ故に、この異常な世界においてもっとも適応した進化をできたのだ。
 シアンは全力でその場から飛び退いた。
 次の瞬間、貪るモノの前足が先ほどまでシアンがいた場所を、粉々に吹き飛ばした。風化しつつあるとはいえ、鉄筋コンクリートの建造物の一部をやすやすと砕いた。もはや怪獣紛いの破壊力だった。
 姿から察するに、シアンの目の前にいる貪るモノは、天道虫の進化体なのだろう。三メートルを超える巨体以外は、天道虫であった名残が見て取れた。今まさに広げている翅は、天道虫のそれにそっくりだ。
 鼓膜を破るような羽音。
 毎秒何万回も羽ばたかれる翅から発せられる風は、ただそれだけでシアンを苦しめた。彼女は貪るモノの次の行動に気付き、またもその場を飛び退いた。瓦礫などで自分が傷つく事など構いもせず、死に物狂いでその場を逃げた。
 轟音と共に、貪るモノの巨体が地面に陥没した。
 大砲の弾より巨大で、なおかつ速い、貪るモノの体当たり。瓦礫の山が粉塵と化していた。
 シアンは血の気が引き、体勢を直すと、すぐさま逃げ出した。
 貪るモノに銃は通用しない。銃どころかミサイルでも殺せない。貪るモノの大半が虫の進化体であり、硬質な甲殻に包まれている。その甲殻がどんな襲撃も防いでしまう。
 虫は元々、巨大化できない存在だった。虫にとって硬質な甲殻は強力な武器であるが、非常に重く、数センチ以上の大きさにはなれないはずだった。同じ節足動物である、海老、蟹などいった物があの大きさなのは、水中という重力の束縛から離れた場所ゆえ。重力という制限がある以上、虫の甲殻は巨大化できないといわれていた。
 しかし、目の前にいる貪るモノとは、それまでの常識を覆している。
 自分の十倍以上の質量を軽々持ち上げたり、目にも留まらぬ速さで飛び交ったりできる虫達が、現在のような大きさになれば人間を脅かすのは当然であろう。虫は小さかったからこそ、地上の覇権を手にできなかった。しかし、今のような巨大さになれば、世界を牛耳ることなど簡単なのだ。
 シアンは恐ろしい化け物から逃げ続けた。しかし、あまりにも力の差があり過ぎる。一番柔らかい節の部分に銃弾を撃ち込めたとしても、ほとんど掠り傷程度の損傷しか与えられない。どう足掻いても、勝てない。種としての限界なのだ。
 瓦礫を吹き飛ばしながら、貪るモノは獲物を追った。複眼を持つ貪るモノには、彼女がどこに逃げ込もうとすぐに見つけることができる。三六〇度、全ての視界を把握できる貪るモノが、亡者ごときを逃がすはずがないのだ。いくら逃げても、絶対に見つけ出す。そもそも貪るモノに見つかった時点で、その生物の命は終わっている。
 粉々に吹き飛ばされる瓦礫の雨を受けながら、シアンは走り続けた。降り注ぐコンクリートの雨だけで、彼女はすでにボロボロだった。数え切れないほどの傷を負い、疲労は限界に近づいていた。しかし、それでも彼女は走った。
 死にたくない。
 生への執着が彼女の体を突き動かしていた。無駄とわかっていても、彼女は生のしがらみを断ち切れない。どんなことをしても生きる。それが全ての生物の性なのだ。
 どこまで走り続けたか。シアンの体はついに限界に達した。数え切れない裂傷から漏れる血と、一時間にも及ぶ逃亡劇による疲労。シアンの意志に反して、体は地面に転がり落ちた。
 ロンドン郊外の荒野だった。あまりに必死だったため、自分がロンドンを出たことにさえ気付いていなかった。
 貪るモノが羽音を立てながら、シアンを見下ろしていた。力尽きた獲物をどう食らおうか考えているのだろうか。
 シアンは立ち上がることさえままならなくとも、必死に逃げようとした。身を隠せるような場所もないというのに、それでも地を這って逃げ出そうとした。最後の最後まで、彼女は生き続けようとしている。
 貪るモノは獲物の最後の足掻きを、高い空から見下ろしていた。これだけ広い場所に出てしまえば、もう獲物を逃がすこともない。獲物が力尽きるのを待っているのだろう。
 シアンは惨めに地を這いながら、微かな振動を感じた。痙攣している自分の体の振動ではなく、何かが地面を揺らしている気配を感じたのだ。地震か、と思ったが、それも違うと察した。確かに地震にも似た振動だが、これはまるで何かが地面を突き上げるような、そんな振動だった。
 そして、次の瞬間、シアンの体が吹き飛んだ。
 突如、地面が下から突き上げられたのだ。そして、そのまま岩石と土塊と共にシアンの小さな体は飛ばされた。彼女は宙を舞いながら、地面を突き破った存在の姿を見た。
 地面を突き破ったそれは、そのまま中空で飛び交っていた貪るモノに向かっていった。貪るモノも突然のことで反射できず、その近づいて来るモノに目を奪われていた。それが死に繋がるものだと知っていながら、貪るモノは何もできなかった。
 地面を突き破ったそれは、一口で貪るモノを食らった。
 貪るモノの一種、ミミズの進化体だ。地上の覇者たる貪るモノの天敵は、やはり同じく貪るモノだった。三メートルを越す天道虫進化の貪るモノは、数十メートルはあろうかというミミズ進化の貪るモノに食われた。
 貪るモノを食らった貪るモノは、そのまま軟体の体を地面に突き刺し、潜っていった。あまりに小さいシアンのことなど、全く気付きもしないで。
 シアンは呆気にとられ、しばし呆然とした。
 しかし、すぐに実感がわいてきた。腹の底から喜びがこみ上げ、天に向かって腕を突き上げた。
 生き残った。
 生き残ることができた。
 シアンは疲労困憊の体ながらも、素直に喜んだ。あの最悪の状況から逃げ切れたことを。自分がまだ生きていられる、という素晴らしきことを。
 世界は醜悪な姿へと堕ちていき、かつての美しさなど微塵も存在しなかった。地は荒廃し、海は腐敗し、空は陵辱された。腐り切った救いようもない世界だ。
 しかし、その中でも命の輝きだけは、変わらずに輝いていた。
 どれだけ腐り切った世界であっても、生命の器が醜く歪んだとしても、命の輝きだけは決して変えることができなかった。
 そこにある命の輝き。
 それはただ、そこにあるだけで限りなく美しい。
 少女は今日も生きていく。
 明日も同じように生きていられる保証はない。未来には何の希望もない。ただ真の滅びを待つだけの世界で、期待できるものなどあるはずがない。
 しかし、それでも少女は生きていく。
 この絶望だらけの、壊れてしまった世界を。
 その命が続く限り、ただひたすらと生き続けるのだった。







戻ります