SONATA.14




『SONATA.14』

作:遠野 秀一 




「誠二、受け取りなさい!」
「…………。聖、それはもしかしてバレンタインチョコかい?」
「当たり前ですわ! レディが二月十四日に渡す物といったら、チョコ以外にないでしょう! 馬鹿ですか、貴方は?」

 しかし、包みからはチョコ以外のニオイがするのだけど…?

「何ですの? 今、何かおっしゃいました?」
「いや、まさか聖からチョコを貰えるとは思っても見なかったから…」
「し、失礼ですわね! わ、わ、私は貴方の、か、か、彼女なのですから、チョコくらい恵んであげますわよ!」

 あははは、照れてる。可愛いなぁ。
 しかし、その怪しげな包みは、正直いらない。その気持ちだけで充分過ぎるほど嬉しい。というか、彼女のバレンタインチョコで死にたくないから、全力でいらない。

「いいですこと、誠二。しっかり味わってお食べなさい! ここで見ててあげますから!」

 …終わった、何もかも…。
 阿井誠二、バレンタインチョコで死す…。








  一ヵ月後


 真冬の厳寒も過ぎ去り、春の訪れを感じる三月の麗らかな日。差し込む日差しは柔らかだが、吹き込む風は未だ厳しい。だが、あと数週間も経てば、桜咲き乱れる季節となるだろう。
 全く以ってこの上ないほどに良き日だ。こんな日は、何も考えずにのんびりピアノを弾いていたい。弾いていたいんだが…、そう出来ない理由がある…。
 僕、阿井誠二には、大きな悩みがあるのだ。

「どうしたんですか、阿井先輩?」

 悶々と悩んでいると、心配そうに声をかけてくる者がいた。顔を上げると、可愛いウェイトレス姿の後輩、逢瀬美夜さんだった。
 ちなみに今僕がいる場所は、喫茶店Beautiful Sky。一応、喫茶店と銘打っているが、頼めばどんな料理でも出てくる定食屋顔負けの店だ。で、逢瀬さんはこの店のバイト店員。

「あ〜、ちょっと、悩みがあって…」

 正直、今までの人生の中でぶち当たった事のない問題なのだ。どう対処すればいいのか、かなり悩んでいる。

「悩みですか? それなら、相談に乗りますよ?」

 快く僕の悩みを聞いてくれるという逢瀬さん。彼女は本当に人がいい。純真というか、無垢というか…。
 はぁ…、あの人が、こんな人だったら、頭抱えて悩まないんだろうけどな…。

「助かるよ、逢瀬さん。ありがとう」
「いえ、これぐらい何でもないですよ。気にしないでください」
「あ…、でも、たった一人の店員を拘束しちゃ不味いよね、マスター?」

 僕は少し躊躇いながら、食器を洗っているマスターに尋ねた。しかし、マスターは気さくな笑顔を浮かべ、手をひらひらと振った。

「客に相談される事なんて、しょっちゅうだ。気にすんな。よっぽど混んでない限り、俺一人でも回せるからな」

 マスターには失礼だが、この店は結構狭い。満席になっても、大した人数にはならない。手際のいいマスターなら、確かに一人でも切り盛り出来るだろう。

「あ、そうですか。ありがとうござ…」
「まぁ、でも、コーヒー一杯で長時間居座ったりする奴は、客じゃないが…。あ〜、それと、美夜ちゃんの人の良さに付け込む奴は、死刑だ。この店の暗黙のルール」

 …こ、この人は、いい人だけど、時々嫌いだ…。

「え、えっと…、逢瀬さんに、木苺のタルトを…」
「え? わ、悪いですよ、阿井先輩」
「いや、気にしないで。話聞いてくれるお礼だから」
「でも…」
「美夜ちゃん。男からの貢物は受け取るのが礼儀だよ」
「そ、そうなんですか?」
「そうそう」

 戸惑っている様子の逢瀬さんに、マスターは木苺のタルトを問答無用で渡した。伝票は当然、僕に…。

「え、えっと、じゃあ、ありがとうございます、阿井先輩」
「あ、あぁ、どういたしまして。じゃあ、えっと、相談に乗ってもらっていいかな?」

 あ〜、相談料は木苺のタルトか…。いくらだったかな?

「はい。何でも話してください」
「…実はさ、ホワイトデーの事なんだよ…」
「あ〜、聖先輩へのお返しですか?」

 …聖先輩とは、僕の恋人である、藍沢聖の事だ。
 どんな女の子かというと、まぁ、その…、典型的なタカビーお嬢様。ワガママで常に自分が一番じゃないと気が済まない天上天下唯我独尊な女の子。最初の出会いも、一番の出席番号を奪われましたわ〜、とか言われて文句付けられたぐらいだ。
 まぁ、でも、結構可愛いところがあるんだ。だから、僕たちは付き合う事になったんだし…。

「ほら、聖に普通のキャンディーとか贈っても、この安物は何ですかぁ〜、とか言って投げ返されそうだし…。困ってたんだよ」
「そうですか? 阿井先輩の気持ちがこもっていれば、聖先輩は喜ぶと思いますよ?」

 そんな逢瀬さんみたいに純真無垢な反応してくれるなら、僕だってこんな頭抱えて悩んだりしない。聖は、僕の気持ちがこもっていようと何だろうと平気で投げ返してくるような人だから困っているのだ。

「本当ですよ、阿井先輩。聖先輩は少し素直じゃない所がありますから、正直に嬉しいって言わないだけです。大切なのは阿井先輩の気持ちです!」

 それはわかっている。でも、投げ返されると、痛いんだ。聖って野球部のエース顔負けの剛速球投げられるから。

「う〜ん、だとしても、根本的に何を贈ればいいかも悩んでいるんだ。マシュマロ、クッキー、キャンディー…、何がいいだろう…?」
「そうですね〜? う〜ん…」

 逢瀬さんは顎に指を置いて悩み出した。彼女のいる身として不謹慎だが、かなり可愛い。

「ね? 悩むでしょ?」
「そうですね…。バレンタインの時は、選択肢がチョコだけですから…。あ〜、でも、バレンタインの時だって充分悩むんですよ! 今年なんか…」

 そう言い掛けて逢瀬さんは真っ赤な顔になって口を噤んだ。
 多分、今のセリフの後にはきっと、逢瀬さんの彼氏(当人達は否定しているが)である御堂剣君の名前が出るはずだったのだろう。

「そういえば、剣君、ホワイトデーどうするかな? そういうイベントとかに無頓着そうだから、忘れてるかも?」
「そ、そんな事ないですよ! お返しならもう…」

 と言ってまた熟れたトマトみたいに真っ赤に逢瀬さん。その口振りからだと、あの朴念仁の剣君が気の利いた事をしたのだろう。あとでマスターと一緒に聞きだそう。

「え、え〜っと、そ、そうです! 阿井先輩は、バレンタインの時に、聖先輩からどんなチョコ貰ったんですか?」
「あ、あぁ…。あまり思い出したくないんだけど…」

 あれは恐怖の記憶だ。生まれて初めて好きな子から貰ったチョコだったが、出来ればあの味は忘れたい。

「て、手作りチョコ…」
「へ〜、あのお嬢様が手作りだなんてなぁ…。で、どんなオチだ?」

 いつの間にか興味津々の様子で話に参加しているマスター。面白そうな展開になると、必ずこの人は参入する。

「当然、砂糖と塩を間違えるなんてベタな真似通り越した凄技繰り出したんだろう?」
「…えぇ、激辛カレー入りチョコでした…」

 あれは地味に恐ろしい一品だった…。
 見た目は普通のチョコだったんだ、見た目は…。しかし、ニオイがおよそチョコとは思えない香ばしいものだった。それに、作ったのはあの聖である。まともなチョコを作ってくるとは夢に思っていなかった。ある程度は覚悟していた。しかし、その味は僕の予想をはるかに上回っていた。一言でたとえるなら、灼熱地獄。この世のものとは思えない激辛味が僕の舌を焼き尽くした。

「…え、えっと、阿井先輩って辛いの、駄目でしたよね?」
「うん。聖は超が付く辛党だけど…」
「…ち、ちなみに、何故にカレーなんだ?」
「初めて聖が作った料理だからじゃないですか? 一応、思い出の料理ですから」

 僕はあまりの辛さに失神したが…。

「災難だったなぁ…。まぁ、煮込み料理にチョコを入れるってのは、あながち間違いじゃないんだが…」
「チョコの中にカレーを入れるのは大失敗でした」
「だろうな…。ま、お気の毒〜」

 とか言いつつも、結構面白がっているマスター。何だかんだ言っても人の不幸は蜜の味なのだろう。

「で、本題に戻るが、ホワイトデーに何贈るか悩んでるんだよな?」
「はい。何かいい物ないですか、マスター?」

 無駄な知識ばっかり溜め込んでいるマスターなら、いい案を思いつくかもしれない。

「う〜ん、そもそもバレンタインのアンサーデー(Answer Day)は、どこぞの飴菓子協会が、ホワイトデーを定める前から、欧州にあったんだ。確か、ポピーデー、フラワーデー、クッキーデー、それに、ホワイトデーとか呼ばれててな。まぁ、美夜ちゃんじゃないけど、お前の気持ちがこもっていれば、何贈ったって問題ないんだよ」
「でも、そう簡単に納得する子じゃないよ、聖は…」

 大体気持ちをこめるとか言っても、どうすればいいかわからない…。手作り料理だって、技術が無ければ大失敗するのは、僕自身が痛感している。文字通り…。

「あ、だったら、ピアノはどうですか、阿井先輩?」
「「あっ!」」

 ピアノ…。僕がもっとも得意としている物。まだまだ未熟だが、これでも一応はプロを目指している。今まで何度か聖にも聞かせた事がある。ピアノを聴いている時だけは静かなのだ。

「そうか。贈る物が何でもいいなら、別にピアノでも問題ないよね」

 そうだ。そもそも、僕達が付き合いだすようになったキッカケは…、

「そういえば、お前が付き合い出す前日に、音楽室からリストの愛の夢が聞こえてきた話が…」
「わああッ!? どうして知ってるんですか、マスター!?」
「俺の情報網を嘗めるなよ」

 何て恐ろしい情報網だ。やっぱり、この人は危険人物だ。
 確かに僕は告白した時に、フランツ・リスト作曲の愛の夢を弾いた。学校の第二音楽室で…。

「まぁ、告白にまでピアノ使ったんだ。ホワイトデーのお返しもピアノでいいんじゃないか?」
「うぅ…、そうですね…」

 この後、散々マスターにからかわれてから僕は店を出た。
 まぁ、散々な目に合ったが、ホワイトデーに渡すお返しが決まって、一安心だ。








 ホワイトデー当日。放課後、僕は聖を第二音楽室に呼び出した。
 第二音楽室は、吹奏楽部が練習している第一音楽室と違い、放課後はほとんど誰も近寄らない。
 ここは僕のお気に入りの場所であり、絶好の練習場所。それに、聖とのいろいろな思い出がある場所。

「それで、何の用ですか、誠二?」

 ここに来ると、聖はいつもより少し優しい感じになる。

「えっと、約束のホワイトデーのプレゼントを渡そうと思ってね…」
「あら、何をくれるのかしら? つまらない物だったら、承知しませんわよ」

 とっても怖い笑顔だ。そして、本当に承知をしない人だから、更に怖い。

「あんまり面白い物じゃないよ。そんな期待しないで」
「つまらない物なのですか? だったら、いりませんわ。ゴミ箱はあそこですから、さっさと捨ててください」

 本当にきつい事言うな…。まぁ、もう慣れたけど…。というか、こんな子の相手、僕ぐらいじゃないと務まらない。

「捨てられる物でもないんだ」
「じゃあ、一体どんな物ですの?」

 怪訝そうな顔で僕に詰め寄ってくる聖。早速不機嫌モードに入りそうだ。

「まぁ、そんな急がなくてもいいじゃない。さ、ここに座ってよ、聖」
「はぁ…、仕方ないですわね…」

 渋々ながらも聖は僕の言う通り、ピアノがよく見える位置に座ってくれた。
 初めて出会った頃は、それはもう大変だった。済し崩れで彼女のワガママに付き合わされる事になり、振り回されていた。初めは僕だって、こんなワガママな子を好きになるなんて予想さえしなかった。

「それで、一体何をくれるのですか? もう〜、早く教えなさい! 気になるじゃないですか! もう早く〜ッ!」
「はいはい。わかってますよ」

 でも、不思議だな…。出会った時は、疎ましいとさえ思っていた女の子を、こんなに好きになるなんて…。

「それでは、ご拝聴ください…」

 僕は、僕だけのレディのために恭しく会釈した。そして、身を翻すように席に着き、彼女に捧げるメロディーを奏で始めた。
 僕が彼女に捧げるのは、ベートーヴェン作曲、ピアノ・ソナタ第十四番、嬰ハ短調。この頃のベートーヴェンは、耳の不調を感じ、孤独で悲しい生活を送っていた。苦悩に塗れた彼が、たった一つの希望のために捧げた、か細い月のような儚げな曲。
 一般的に知られている別名はあるが、ベートーヴェン自身は、この曲を幻想曲風ソナタと呼んでいた。

「ふぅ…。どうだった、聖?」

 僕はこっそり聖の顔色を窺った。
 聖は上気した頬で惚けていた。聖は嬉しい事があるとすぐ顔が赤くなる。あの顔は喜んでくれているようだ。

「…月光、ですわね?」

 ベートーヴェン作曲、ピアノ・ソナタ第十四番、嬰ハ短調の別名は、月光。ベートーヴェンの三大ピアノ・ソナタに数えられる物だ。

「月光って呼び方は間違いだよ。ある詩人が、スイスのルツェルン湖の月光に波間に揺れる小船、と喩えられたところから、月光、という名が一般化したんだ」
「ふ〜ん…。それで、その曲を私に捧げる事が、ホワイトデーの贈り物かしら?」

 不満そうな顔しているが、顔は赤い。ただ単に照れているだけだろう。

「そうだよ。駄目かな?」
「べ、別に、そんな事はありませんわよ…」

 良かった。痛い目合わなくて済みそうだ。

誠二が私のために弾いてくれたんですから…
「ん? 今何て言ったの?」
「うるさいわよ!」

 ビンタ一閃。
 い、痛い…。どうして叩かれるのかな…?

「それで、何故この曲を選んだのですか、誠二?」
「あぁ、改め言うと恥ずかしいんだけど…」
「仰いなさい!」

 拒否権はないらしい。まぁ、さすが聖って感じだ。

「この十四番ソナタは、身分の違う伯爵令嬢ジュリエッタ・グイチアルディを愛してしまったベートーヴェンが、彼女のために捧げた曲なんだ」
「身分の違う…? まるで私と貴方みたいですわね」

 きっぱり言い切るところが、やっぱり天下無敵なお嬢様の聖だ。

「うん。この頃のベートーヴェンは、耳に不調を感じていた頃で、苦悩の日々を送っていたんだ。耳の聞こえない音楽家なんて、普通やっていけるはずがないからね。そんな彼の唯一の希望が、身分の違う最愛の女性、ジュリエッタだったんだ」
「でも、結局は届かなかったのですわよね、ベートーヴェンの想いは?」

 その通り、ベートーヴェンは生涯独身だった。

「そうだね」
「…ホワイトデーに失恋の曲を聞かせるなんて、もしかして嫌がらせですか? それとも、私と別れたいのですかぁ〜?」

 聖は思いっ切り不機嫌そうな顔で容赦なく僕の頬を引っ張った。でも、その手は少し震えているし、目は少し涙が光っている。
 変な誤解されているみたいだ。

「ち、違うよ、聖!」

 聖の手を振り払って、僕は言った。

「僕はただ身分違いの愛を伝えたかったんだよ!」
「えっ…?」

 顔から炎が上がりそうなほど真っ赤な顔になる聖。頬を隠すように両手で覆い、聖は慌てて僕から目を逸らした。
 ま、不味い…。ドサクサ紛れに凄い事言っちゃったよ…。

「え、えっとさ…、身分違いの恋って、ほとんど届く事がないのは仕方ないと思うんだ…。でも、僕は…」

 僕は、可哀想なくらい真っ赤になっている聖をそっと抱き締めた。聖は一瞬、ビクッ、と身動ぎしたが、黙って僕の腕の中に納まった。

「…僕はこの想いを果たしたい…。たとえ、どんな困難な道でも、僕は聖と一緒にいたいんだ…」
「誠二…」

 聖は静かに僕の名を呟き、力強く僕を抱き返した。

「…私を不幸にしたら、承知しませんわよ?」
「うん、わかっているよ。君こそ、覚悟しておくんだよ」

 たった二人しかいない音楽室で、二つの影が静かに一つになった。穏やかな斜陽の差し込む音楽室で、僕はたった一つの希望のために永遠の愛を捧げた。

「僕は、君を離さないんだから…。絶対に…」







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