水滴の器




    2

 瀬名真紀。俺が本気で愛した人の名…。

 その日は、死にたくなるぐらいに憂鬱だった。しかし、普通に友達と他愛も無い話もするし、普通に授業も受けるし、普通に昼飯だって腹一杯に食べる。
 だから、俺の心の奥底にある闇色の心情になんて、誰も気付きはしない。まぁ、ただの薄っぺらい友人関係なのだ。そんな事まで期待するのは間違っているだろう。
「…はぁ。…ちっ」
 くだらない授業の合間、俺は忌まわしい去年の事故を思い出してしまった。何もしていないと、嫌でも思い出してしまう。あの日の出来事を…。
 瀬名真紀。どうして俺たちはあんな事になったんだ…。どうして、俺たちが別れる必要があったんだ…。どうして、ずっと俺の側に居てくれないんだ…。
「深崎…。深崎!」
「…ん?」
 錯綜する意識の中、婚期を逃した英語教師の声が俺の意識を呼び戻した。
 …微妙に不愉快だな。
「授業中に居眠りするな。とりあえず、この英文を訳せ」
「はいはい…。え〜っと、『ハンプティ・ダンプティ壁の上、ハンプティ・ダンプティ大転落、王様の馬も家来も手も足も出ず、ハンプティ・ダンプティ一巻の終わり』」
「…正解だ。全く、いくら英語が出来るからといって、授業を疎かにするなよ」
「…はい」
 非常に不本意な事実だが、この婚期を逃した四十代教師のおかげで、出口の無い思考の迷路から脱する事が出来た。
 人間の思考なんて複雑そうで以外に単純なものだ。それとも、あの事故の事を俺自身でも終わらせかけているのだろうか。
 忘れる事が出来るから、人はどんな辛い過去も乗り越えられるんだよ。
 確か、瀬名真紀が時々そんな事を言っていたな。あれは俺に対して言ったのではなく、自分自身にも言い聞かせた、って感じの言葉だったな。
 …もう胸はそれほど痛まない。昔は、アイツの事を思い出すたびに、狂い死そうな程に痛んだというのに、だ。
 …どうであろうと、気分が悪くなる。
 俺は目の前で組んでいた両手に、軽く頭を乗せた。
「どうにも俺は肝心なところで臆病だな…」
 誰にも届かぬ小さな呟き。しかし、それでも声に出したのは、自分自身を戒めるため。そして、いい加減覚悟を決めるため。アイツのためにも、これ以上過去に縛られる訳にはいかない。
 会いに行こう。どういう結果になろうと。馬鹿みたいに悩み続ける俺自身を乗り越えるためにも。何より、彼女のためにも…。
 授業を終えた俺は、彼女が稽古をしている道場に向かった。そして、彼女ともう一度会うために待ち続けた。


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