第三章 惨劇の亡霊 3




第三章 惨劇の亡霊 3

作:遠野 秀一 




  3.


 守れなかった大切な人がいた。
 自らの無力さに泣き、運命を呪った。
 そして、その全ての元凶が目の前に再び現れた。
 その存在を決して許せるはずがなかった。
 あいつを殺さずにはいられない。

「柊木!! 答えろ、何故お前がまだ生きてるんだ!?」
「…………」

 悪魔の面を被った柊木牧師(?)は答えなかった。だが、何も言わずとも、修司には感じ取れた。あの悪魔の表情が。
 薄い笑みを浮かべている。
 理由はわからないが、今目の前にいる悪魔の感情が手に取るように感じ取れた。あの悪魔は修司を嘲り笑っている。

「何か言ったらどうだ、柊木!!」
「……ククク。悔シイカ? 二度モ女ヲ守レナクテ……」

 修司の中で何かがキレた。
 許せないなどいうレベルではない。この悪魔の存在を消し去らなければ、自身の存在さえ許せない。共にこの世にあることを認められない、不倶戴天の存在。
 真っ黒な殺意が爆発した。
 気がつけば、修司は一直線に悪魔に突っ込んでいた。

「柊木ィィィッ!!」
「……邪魔ダ。オ前如キニ用ハナイ」

 真紅の大鎌が、修司の首に向けて振り下ろされた。
 しかし、振りが大き過ぎた。この程度の攻撃など、本気の修司には何の意味も成さなかった。優等生ばかりの静林学園に通ってはいるが、修司は喧嘩の場数はかなり踏んでいた。他の者達のような温室で育てられた柔な花などではない。元々、スポーツ推薦で入った雑草なのだ。
 修司はあえて大きく踏み込み、前傾姿勢となって大鎌を避けた。頭上で大鎌が空を切った。

「がッ!?」

 大鎌を避けた瞬間、修司は何かに弾き飛ばされた。踏み込んだはずが、次の瞬間には思い切り仰け反っていた。
 顔面が痛い。鼻血が噴き出した。
 倒れそうになるところ何とか踏み止まり、修司は柊木牧師を睨み付けた。
 黒いマントから膝が突き出していた。どうやら修司が踏み込むと同時に、膝でカウンターを食らったようだった。

「……死ネ。惚レタ女ガ待ッテイルゾ」

 視線を上に向けると、大鎌が斜陽を浴びて煌いていた。
 次の瞬間、断頭台のように大鎌が振り下ろされた。このまま踏ん張っていても、倒れてしまっても、このままの状態では完全に真っ二つにされる。

「……ッ!?」
「……ちっ、世話が焼ける、この馬鹿!! 役立たず!!」

 一陣の突風が吹き荒れた。
 突風、などいう生易しいものではない。風を切り裂く風の刃。風にあって風にあらず真空の刃。風を殺すための風だった。
 真空の刃が修司を通り抜け、柊木牧師を切り裂いた。
 修司はその隙に柊木牧師の腹を蹴り飛ばし、風が吹いてきた方へと振り返った。

「あ、亜紗……。お、お前、その傷で何やってんだ!?」

 亜紗の手には、白く神々しい大鎌が握られていた。
 柊木牧師が振るう真紅の鎌と異なり、神聖な輝きを放つ巨大な風薙鎌。風を祓うための刃。大鎌からは何か言葉で表せない神秘的な力が感じられた。
 先程の風は、この大鎌の力だろうか。
 いや、そんなことよりも相当の深手だというのに、この少女は何故こんな無茶をしたのだろうか。修司は思わず駆け寄り、倒れかけそうな少女の体を支えた。

「このクソ馬鹿……。逃げろって言ったでしょ」
「……悪いが、それは聞けない。俺は、あいつを許す訳にはいかない。桜を殺したあいつを、絶対に!」
「……桜、ね。確かに、あんたの怒りもわからなくもないけど……」

 とりあえず亜紗は無性に腹が立ったので、修司の頭を殴りつけた。
 そして、あの柊木牧師と同じ姿をした悪魔を指差し、言った。

「あれが柊木牧師なはずがないでしょう! あの男は死んだ。それはあんたも直接確認したはずじゃない」

 あの惨劇が起こった場所で、柊木牧師は確かに息絶えていた。
 それは修司を含め、静夜達全員で確認したことだった。死因は心臓麻痺。突然な死に方で不審といえば不審だったが、それでも確実に死んでいた。修司は柊木牧師の顔を知らなかったので、その男が本当に柊木牧師だったかはわからなかったが、肉親である司が本人確認をした。面識のある静夜と陽平も、その死体が柊木牧師だと認めていた。
 柊木牧師はあの惨劇の最後に、死んだ。
 それは紛れもない事実だった。ならば、今この目の前にいる柊木牧師と同じ姿をした悪魔は何者なのだろうか。

「じゃあ……、じゃあ、お前は誰だ!?」
「…………」

 仮面越しからも感じられる嘲笑。
 この悪魔が何者であっても、一つはっきりしたことがある。あの悪魔は敵だ。それだけは絶対に間違いがなかった。

「答えろよ!!」

 再び、悪魔に突っ込んでいきそうな修司を亜紗が抑えた。
 しかし、亜紗は少し息が荒い。あの大鎌で切られた傷は想像以上に致命的だったようだ。
 修司は今頃になって、亜紗の怪我に気付いた。正確に言えば、思い出した、だ。亜紗は修司を庇って、これほどの重傷を負った。復讐に駆られて、そんな大切なことを忘れてしまっていた。

「凪、今は退くのよ。あんたじゃあの悪魔には勝てないだろうし、私もこんな状態。風神の加護を受けたの力も使いきれないわ」

 。
 鎌足神社の隠された御神体であり、人知を超えた神秘を秘めた祭具。そもそも薙鎌とは、風神を迎えるための祭具であり、この風羽譜里御鎌は風神の力を秘められたものだった。代々、鎌足神社の巫女に受け継がれてきた祭具であり、優れた力を持つ巫女ならば即座に呼び出すことができる。
 系統は違うが、これも一種の魔術。現実を侵食し、塗り潰す奇跡の法。
 ただし、瀕死の重傷を負った亜紗にその力を振るうことはできない。今は、風羽譜里御鎌の力のほとんどを生命維持と体力強化に使っているのだから。

「か、かぜはふ……? えっと、その鎌のことか? もしかして、さっきの風もその鎌で……?」
「そうよ。万全の状態だったらともかく、今の状態じゃ確実に殺されるわ。どうも、狙いは私みたいだし……」

 亜紗は先程からずっとあの悪魔の視線を感じていた。
 あれは紛れもなく殺意の眼差し。そして、亜紗はこの眼差しを知っていた。幾度となく感じ、恐れてきたもの。今まで何度も夢見てきた未来の映像。
 亜紗の夢見によって幾度となく『視』てきた自らを殺す者の眼差し。

(……ようやく会えた。あいつが……)

 歓喜と恐怖が同時に湧き上がった。
 立ち向かうべき運命であり、自らの生存を賭けた宿命の敵。
 待ち望んだ存在でもあるが、何よりも恐れていた存在だった。倒さなければならない相手とわかっていても、相手は自らを殺す存在。恐怖を抱かずにはいられない。

「亜紗、どれぐらい動ける? おぶっていこうか?」
「きもいわ……。余計な気遣いは不要よ」
「き、きも……」

 と、亜紗は強がっているが、風羽譜里御鎌の助力がなければ本来、失血性ショック死を起こしても不思議ではない状態だった。
 しかし、今があの夢見の状況でないことは確かだ。少なくても、あの最後のフレーズをいうことは絶対にない、と断言できた。

「とりあえず、あんな格好で街中までは追ってこないでしょう」
「風明寺跡を出られれば、俺達の勝ちか?」
「勝ち、というには微妙だけど、ひとまず振り切れるわね。まぁ、今の私の状態じゃ、石段に戻るまでに殺されるでしょうけど……」

 今の亜紗は戦える状態ではない。
 仮に戦えたとしても、本音を言えばあの悪魔に勝てる自信はなかった。そもそも、亜紗はそれほど運動神経がいい方ではないし、戦い慣れている訳でもなかった。亜紗の役割はあくまでも夢見による未来予知、災厄の未然防止。先陣を切って戦うことではなかった。
 戦力になるのは凪一人だが、先程の攻防でもわかるように時間稼ぎにもならない。

(考えろ。もし、あの夢見が実現するとするなら、私達はこの状況を突破しているはず。どちらかが犠牲になるなんてことはないし、絶対にさせない! 私も凪も、この状況を突破する!)

 戦力差は絶望的。
 しかし、勝利条件はそれほど厳しいものでもない。
 決して勝てない勝負ではないはずだった。

「なぁ、亜紗。俺が……」
「囮になっても無駄よ。時間の無駄だし、貴方を犠牲になんかさせない」
「や、そうじゃなくてさ……。俺が思うに、あいつって攻めてくる気ないんじゃないのか? さっきから動こうとしないし」
「はァ?」

 修司の指摘どおり、先程からあの悪魔からの攻撃がなかった。
 あれほどの使い手ならば、修司や亜紗がどう構えていようと、容易く殺せるはずだ。あれだけ剥き出しの殺意を放ちながら、襲ってこないのは確かに不思議だった。
 亜紗の脳裏にある推論が浮かび、能力を全開にして悪魔を『視』た。

「くそ、やられた!! 何で、もっと早く気が付かなかったんだろう……。
 式神……。ううん、そういった使い魔的なものじゃない。あれは、遠隔操作型の傀儡人形? いくつかの命令を遵守するような術式をかけられてるのかしら?」
「……ど、どうしたんだ、亜紗? 一体何がわかったんだ?」

 不機嫌な亜紗に声を掛けるのは非常に危険だとわかっていたが、声をかけない訳にはいかなかった。

「多分、あの悪魔は何者か……、っていうか多分風間静夜に操られた人間よ。
 だけど、人間を操るのは簡単な術じゃない。そもそも自意識のある生物を操作するのは恐ろしく難しいわ。魔眼持ちでもない限り、そう簡単に成功はしない。
 仮に操作できたとしても、いくつかの命令を実行させることくらいが限界ね。しかも、その命令を実行させるには、また幾つかの発動条件を満たさないといけない」
「…………」

 今更ながら、非常識な単語が飛び交っているな、と修司は思っていた。
 しかし、その非現実的な言葉を否定するつもりはなかった。そもそも、亜紗との行動するキッカケ自体も非現実的な言葉を信じたからだ。
 今は、亜紗を信じる。たとえ、どれだけ非現実的な現象に飲み込まれようとも、亜紗だけは信じていいと思う。修司はそう考えていた。

「なぁ、それってつまり発動条件を満たさない限り、操られていない普通の状態ってことか? そうだら、普段は操られている自覚がないのか?」
「えぇ、そのとおり。さっきも言ったとおり、人間を四六時中操作するなんて奇跡のレベルよ。普通は無理」

 襲ってこないとわかるや否や、亜紗はその場に座り込んだ。
 何とも豪胆だ。襲ってこないという確証があるとしても、敵前でゆっくり休めるとはなかなかできることではない。

「人体操作の術ってのは、いわゆるトラップみたいなものね。
 普段はその人物は至って普通なの。ただ、あるキッカケがあった時、初めて人体操作の術が発動するの。つまり、そのキッカケってのが、発動条件ね。
 で、術が発動すると、あらかじめ決まった命令を実行させられる。ただし、複雑な命令は無理。しかも、術発動中はその命令以外の行動は不可能。
 まぁ、若干の違いはあっても、これが人体操作の術の基本ね。これより単純な術はあっても、複雑なものは早々ないわ」

 亜紗は説明しながら、傷口の確認をしていた。
 風羽譜里御鎌の助力がなくなれば、おそらく数時間ももたないだろう。しかも、斬られたのが背中なので、自分で治療ができなかった。

「多分、あの悪魔がかけられている術の発動条件は、この風明寺に侵入者が現れた時でしょうね。
 実行命令は、正体を隠せ(多分、あの悪魔の面で)、本堂に入れるな、ってのは間違いないわね」
「あと、侵入者を逃がすな、ってもありそうだな?」
「まぁ、その確率は半々ね。三つ以上の命令は難しいし」

 かといって不用意に動くつもりはなかった。
 亜紗は重傷を負った状態だ。仮に、侵入者を逃がすな、という命令があったとすれば一環の終わりだ。しかし、いつまでもここにいられるほどの余裕はなかった。

「亜紗、とりあえずお前の傷を塞ごう。傷口見るから、脱げ」
「ぬッ!?」

 亜紗の顔が一気に真っ赤になった。
 修司の発言にやましい意図がないことはわかっている。しかし、乙女として殿方相手に柔肌をさらすのに恥じらいを持つのは当然のこと。

「ほら、早くしろよ。それとも、脱がして……ぐほぉ!!」
「う、うるさい! 私がいいって言うまで後ろ向いてろ!」

 修司を殴り飛ばし、亜紗は制服に手をかけた。上着のボタンを外し、肩から服をずらして背中を開けた。
 修司は後ろを向いていたが、聞こえてくる絹摺れ音に少しドキマギした。彼も青少年なので、少し不埒な想像が脳裏を過ぎる。しかし、慌てて頭を振って、その想像を振り払った。

「……いいわよ」
「お、おう。……ッ!?」

 修司は振り返り、亜紗の傷を見た。そして、激しく後悔した。
 それは想像していたものより遥かに深い傷痕。これは本来、修司が負うはずだったもの。亜紗に庇われなければ、この傷を負っていたのは修司だった。
 こんな深い傷を女の子に背負わせてしまった。自らの情けなさに、激しい怒りが込み上げてきた。

「亜紗、ごめん……。俺のせいで、こんな……」
「気にされると、逆に鬱陶しいわ」
「でも、この傷は俺を庇ったせいで……」
「ウザい、黙れ。元々、巻き込んだのは私よ。私が貴方を巻き込まなければ、そもそもこんなことにはならなかったでしょう」

 亜紗は冷たい態度で修司を突き放した。
 しかし、修司にはわかる。この少女の無償の優しさが。あえて冷たい態度を取っているのは、修司に気負わせないためだ。
 結局、何もかも亜紗に守られてばかりだった。

「俺、ほんと馬鹿だ……」
「何を今更」

 今は何を言われても仕方がない。
 自らの愚かさが身に染みていたから。
 しかし、もう二度と同じ過ちは犯さない。

「俺が守るよ……」
「えっ?」

 かつて守れなかった大切な人がいた。
 自らの無力さに泣き、運命を呪ったことがあった。
 しかし、今度こそは己の命に代えてでも守ってみせる。

「お前は、俺が守る。もう二度とこんな目に合わせたりしない」
「凪……」

 もう決して奪わせない。
 大切な人は二度と手離さない。

「守るから、絶対に……」
「…………うん」










「さて、とりあえず走ったりは無理だけど、動くには支障はないわね」

 修司に応急処置をしてもらい、先程より随分と楽になった。
 しかし、亜紗の状態が悪いことに変わりはなかった。風羽譜里御鎌の力がなければ、本来は立っていられないほど状態だった。早期に治療をしなければ、命に関るだろう。

「で、どうする? 戦うか? それとも、逃げるか?」
「当然逃げる」
「まぁ、そうだろうな。で、逃げるって言ってもどうやってだ? 亜紗は無茶できないだろうし、そう簡単に逃がしてくれる相手じゃないだろう? まぁ、逃がすな、って命令がされてなかったら、ただの取り越し苦労で済むんだけどな」

 あの悪魔にかけられている術式の容量から考えても、これ以上の実行命令はないと考えるのが自然だった。
 しかし、この悪魔を配置した者がそんな甘い隙を作るとは思えなかった。必ず侵入者を殺す仕掛けがあるはずだ。決して油断はできなかった。

「馬鹿、楽観視しない。とりあえず、逃走阻止の命令がされていると仮定しましょう」
「そうだな。だけど、複数命令がされてるなら、優先度があるはずだよな? もし、侵入者を殺す命令が、他の命令よりも優先度が高かったらどうするよ?」

 修司がかなり的を射た論理的なことを言い、亜紗は少し驚いた。
 複数の命令がある場合、必ず優先度というものが存在する。この悪魔の場合ならば、正体を隠せ、逃がすな(仮定)、の二つの命令が存在している。そうした状態で、侵入者が悪魔の正体がバレかねない場所へ逃げ込んだとする。そうした場合、対応は二つある。正体をバラしてでも侵入者を殺すか、侵入者をあきらめて正体を隠すか。
 命令に矛盾した状況。それは複数の命令を遂行する場合に訪れる可能性がある問題だ。これを解決するために設けられるのが、命令の優先度というものだ。
 もし、正体をバラしてでも侵入者を殺せ、という命令がされていた場合、修司達が助かる可能性は限りなくゼロになる。

「大丈夫よ。そもそも使い捨ての駒なら、わざわざ正体を隠す必要なんてないでしょ? 侵入者を殺した後に自分で自分を始末させればいいんだから」
「あぁ、そっか。術が発動すれば、どんな命令でもやるんだったな。おっかねー」
「まだあの悪魔には利用価値があるのよ。だから、わざわざ正体を隠しているんじゃないかしら?」
「なるほどな」
(まぁ、正体を隠すのには他の理由があるのかもしれないけど……)

 今は悪魔の正体や、それを隠す理由について考える余裕はない。亜紗は思考を切り替え、逃げる策だけに集中した。

「じゃあ、本格的に逃げる策について説明しましょうか」
「おう、頼むぜ」
「私達が逃げるには、あの悪魔の命令優先度の隙を突くしかないわ」
「つまり、命令矛盾を起こさせて、その混乱に乗じて逃げると?」
「当たらずとも遠からずね。でも、そんな上等な策じゃないわ。う〜ん、法の抜け道を通るせこい政治家みたいなやり方よ」

 修司は苦笑した。微妙に嫌な例えだった。

「まず、あの悪魔は正体を隠すことを最優先にするはずだから、この風明寺の敷地外から出られれば追ってこないはずよ。これはいいわね?
 で、問題はあの悪魔が逃走阻止の命令を受けているとして、その命令の発動条件は何かってことよ」
「発動条件……。あぁ、そういえば、まだその命令実行してないもんな」
「多分、私の推測だと二つね。一つ、他二つの命令がすでに実行状態であること。二つ、出口に近付くこと。
 要は、この発動条件に接触しないように距離をとって、悪魔を振り切る」

 確かにせこい。
 しかし、笑ったら修司は亜紗に殴られた。せこいと自分で言ったのに、だ。

「とりあえず裏の林を抜けるわよ。罠がないことを祈っときなさい」
「わ、罠!? ……冗談だよな?」
「だといいわね。行くわよ」

 ゆっくりとした足取りで歩き出す亜紗。それを修司がそっと支えた。
 二人は遅々とした足取りながらも、支え合って進んだ。幸い、悪魔は追ってこなかった。もしかしたら、悪魔の視界だけでも発動条件を満たすかもしれない、と亜紗は杞憂していたが、それも外れたようだった。
 裏林までは無事到達できた。今のところ悪魔が追って来る気配はなかった。
 長らく人も獣も近付かなかった林は鬱蒼としていた。日の光は届かず、暗く澱んだ空気に満ちている。陰鬱な雰囲気に包まれたその場所は、とても人が踏み込む場所とは思えなかった。

「凪、もう大丈夫。ここからは無理してでも急がないと……」

 修司の手をそっと押し退け、亜紗は一人で立った。
 亜紗の勘が正しければ、恐らくこの林に踏み込むことで発動条件が満たされるはず。それほど広い林ではないので、歩きでも抜けるのに五分程度だ。追いつかれるのに、三分か四分。時間的には正面から石段を突っ切る方が早いのだろうが、遮蔽物の多いこの林の方が逃げるには有利だった。

「来るかな?」
「来ないなら来ないで儲けものよ。……でも、来るでしょうね」
「とりあえず、お前は先に行け。周囲の警戒は俺がするから」

 近くに落ちていた木の棒を拾い、修司は微笑んだ。
 修司は軽く棒を振るってみたが、悪くない手応えだった。無論、あの赤い大鎌と渡り合えるほどではないが、この林を切り抜けるくらいの役には立つだろう。

「うん、背中は任せるわ」
「行こう!」

 二人は林に踏み込んだ。
 途端、亜紗のもう一つの視界に魔力の流れを感じ取った。
 おそらく術が発動したのだろう。やはり、あの悪魔には侵入者逃走阻止の命令がかけられたようだ。
 傷の痛みを無視して、亜紗は歩を早めた。
 あの悪魔は必ず追いかけてくる。
 必ず亜紗を殺しに来る。
 殺される瞬間のイメージが脳裏を掠める。
 恐怖が全身を震わせ、一刻も早くこの場所から逃げたかった。
 怖い!
 怖い!!
 怖い!!!
 死を恐れ、生に固執することは命ある存在にとって当然のことだった。

「亜紗、大丈夫か? 顔、真っ青だぞ」
「暗いからそう見えるだけよ。それより警戒を怠らないで」
「わかってる。だけど、お前のことも心配なんだ」
「ば、馬鹿! そんなことよりって……、上!?」
「……ッ!?」

 亜紗の言葉に反応し、修司は上に向かって棒を振るった。
 反射的に振るった一撃は幸いにも、樹上から襲ってきた悪魔に命中した。当然、ダメージを与えられるような攻撃ではなかったが、それでもその一撃のために悪魔はバランスを崩した。大鎌が修司のすぐ隣の木に刺さり、悪魔は着地に失敗した。

「馬鹿、警戒するって言ってたくせに役立たず!」
「うっ、返す言葉が……って、んなことより逃げるぞ!」

 修司は亜紗の手を取り、走り出した。
 走れば亜紗の負担になることはわかっていたが、ここで死んでは意味がなかった。彼女も修司の手を強く握り返し、走り出した。

「やっぱり追ってきやがったな!」
「そして、あんたはやっぱり役立たずだったわね!」
「ぐっ……。汚名なんてすぐに挽回する!」

 悪魔が起き上がり、再び二人に襲い掛かった。
 この林の中で武器を振り回すことは難しい。大鎌は縦に振るうしか攻撃方法がないので、避けるのはそれほど苦ではなかった。大鎌の攻撃を回避しつつ、二人はそのまま林を駆け抜けた。
 大鎌が使えないと判断すると悪魔はすぐに得物を捨て、徒手空拳による攻撃を仕掛けてきた。

「……死ネ」
「くっ、素手相手に負けられるかよ!」

 空手で突っ込んでくる悪魔に、修司は棒を突き出した。
 しかし、不用意に突き出した一撃は簡単に避けられ、代わりに強烈な拳をボディに食らった。この林中で長物は逆に不利だった。

「ぐっ!!」
「邪魔ダ、消エロ」

 腹を押さえて倒れそうになったところを容赦なくアッパーをもらう。
 最初の攻防でも味わったが、この悪魔の体術は半端ではない。それなりに喧嘩慣れしている修司をいとも容易く倒してしまうほどの実力がある。

「……なるほど。汚名、返上じゃなくて、挽回ね。納得」
「うっさい!! お前は俺に構わず先に行け!!」

 崩れ落ちそうなりつつも、修司は必死に踏ん張った。
 自分の後ろには守らなければならない人がいる。だから、修司は今ここで倒れる訳にはいかないのだ。
 もう二度と大切な人を失う訳にはいかないのだ。

「ここは通さねぇぞ!! クソが!!」
「…………」

 無言で突き出された拳を、今度は受け止めた。
 代わりに修司の右ストレートが悪魔の仮面を直撃した。当然、全力で仮面などを叩けば、かなりの激痛が走る。それでも、構わずもう一度右の拳を繰り出した。
 顔面に二発。素手の戦いならば、引けは取らない。
 そう思うや否や、修司は強気に出られた。戦って勝てる相手ならば、逃げる道理はない。今ここで倒して、亜紗の仇をとる。

「くたばれ、クソ悪魔!!」

 修司は大きく踏み込み、渾身の拳を繰り出した。
 しかし、悪魔は反撃もせずに大きく後ろへ跳んだ。予想以上の逃避だ。いくら修司でも一発で悪魔を打ち倒せるほどの実力はなかった。むしろ、格上なのは悪魔のはずであるのにもかかわらず、想像以上の警戒振りだった。

「凪、深追いしなくていいから! 早くこっちに!」
「くっ! ……わかった!」

 できることなら倒したい相手だったが、今は亜紗のために逃げることを優先しよう。
 修司は身を翻し、亜紗の後を追った。先程の攻防で彼女は随分先に進んだようだ。出口はもうそれほど遠くはなかった。

「あいつ、やっぱり自分の正体を隠すことを優先したわね」
「えっ? あぁ、そっか。だから、今あんなに退いたのか。仮面に二発入れたもんな」

 仮面のズレを直し、悪魔は再び追ってきた。
 しかし、距離は随分と離れている。すぐには追ってこられないだろう。
 二人の先にはすでに林の出口が見えていた。このまま走り切れば、確実に逃げ切れるはずだった。仮に追いつかれも、素手に悪魔なら迎撃可能。
 逃げ切れる。そう思った瞬間、急激な虚脱感に襲われて、二人は思わずその場に膝を突いた。

「な、何だ……? 体が急に……」
「……これは呪縛結界? ううん、それだけなら今の私でも気付く。……空間歪曲封呪も同時に?」

 突然体が動かなくなった二人。
 亜紗にはこの状態異常が起こった理由についてある程度わかっているようだったが、修司には何が起こったのかわからなかった。
 とにかく体を動こうとしたが、まるで神経が断裂したかのように微動だにしなかった。
 その間、悪魔は悠々と近付いてきた。その手には一度捨てられたはずの赤い大鎌が握られていた。

「お、おい!? やばいぞ!! クソ、何で体が動かないんだ!! 動けよ、畜生!!」

 どれだけ吠えようとも、修司の体は全く動かなかった。
 ここまで来て、あと少しで逃げ切れるはずだったというのに、ここで殺されてしまうのだろうか。そんな理不尽な運命を認められるはずはなかった。

「……多重命令式の人体操作に、呪縛結界を空間歪曲封呪で隠蔽? 冗談じゃないわよ。そんな魔術、人間の限界をとっくに超えている。なら、その魔力の供給源は何? ……消えた一二人の魂、風明寺から消えた大量の悪霊……。まさか……、でも……、有り得ない……。いくらなんでも、それは……」

 亜紗は未だに何かを考え込んでいるようだった。
 その表情はまるで恐ろしいものを目撃したかのように青ざめていた。

「亜紗、お前の方はどうだ? お前だけでも……」
「……無理よ。万全な状態ならともかく今の私じゃ、この結界を破る力はないわよ。打つ手なしね……」
「クソ!! また、また何もできないのか!! 動け、クソ!! 何で動かないんだよ、俺の体は!! 守るって言ったんだ!! また守れずに終わってたまるかよ!!」

 また失ってしまうのか。
 また大切なものを奪われるのか。
 また何もできずに終わってしまうのか。

「…………終わりだ」
「畜生、畜生ォォォッ!! 動けよ、俺の体!! 何で動かないんだよ、畜生!!」

 どれだけ願おうとも、奪われる時は奪われる。
 忘れがたい惨劇の悪夢。血の海に沈み、永遠に笑顔を失った少女の姿。運命はあまりに残酷で無慈悲だった。人の想いがいくら強くても、運命という大きな歯車の前では無意味だった。
 死は、全ての命ある者にとって等しく与えられる。
 そして、その運命から逃れられる者はいない。
 誰もがいずれ運命に殺されるのだ。
 悪魔は無力な犠牲者達を嘲笑していた。いくら叫んでも彼等には何もできなかった。無慈悲に血塗れの大鎌が振り上げられ、そして……。







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